母親の孤独とは何か①

「母親の孤独から回復する 虐待のグループワーク実践に学ぶ」村上靖彦 講談社選書メチエ

書名にひかれて手にした本。母親の孤独から回復するのは誰なのか、虐待されている子どもなのか、それとも虐待している本人なのか。
虐待する親は、多くの場合、自分自身が虐待の被害者であり、本人も傷ついているのだが、そのことに気づいていない場合も多い。

虐待に追い込まれた母親は成育歴の中で、基本的な安心感を持つことができなかった人であり、虐待という手段を手放すためには、他の人そして社会とのつながりを回復し、自分自身と折り合いをつけることが必要であるという。基本的な安心感を生み出す構造は「ホールディング(抱っこ)」と呼ばれるらしい。抱っこ・・・。
「抱っこによって愛情を注ぎ、体を支えるだけを指すのではない。ミルクを与えること、温度を保つこと、刺激を減らすことといった環境を安定させるためのすべての気遣いの総称である。」(p.40)。

「ああ、そうなのか」と思う。あるものを名付けることはできるけれど、存在しないものに名前を付けることは困難だ。幼いころにホールディングを経験したか否かは、自己の存在感を実感できるかどうかという、その後の人生を歩むうえで重要な自己肯定感の有無につながる。

何かで読んだ話だからおぼろげだが、サルの子どもを親から離して一方にはやわらかいぬいぐるみ、もう一方には硬い人形が与えられるという実験が行われたが、硬い人形を与えられた子どもは正常な発達ができなかったという(胸が痛む実験である)。生命の生存には適した環境が必要だ。そして、哺乳類には自分の存在を柔軟に受け止めてくれる環境が、それも心理的なものだけではなく、実体として肌に優しく触れる物理的が接触環境も必要だということを示唆しているように思う。

母親の庇護を必要としていた幼いころに抱っこされたかったと今でも切実に思う。しかし、過去には戻れない。ホールディングされた実感を持てない私たちはどうしたら、安定した心を取り戻すことができるのだろう。

今からでも生きなおすことができる。変わりたいと願うなら、なりたい自分に近づくことができる。ホールディングを生むためのグループワーク「MY TREE 西成」の実践がこの本には書いてある。誰か強い人に依存するのではなく、脆弱さを抱え込んだ傷ついた人たちが互いに互いを支えあうからこそホールディングが成り立つのだという。

以下、心に刺さった部分を抜き書きしてみる。
・自らも重度の虐待のサバイバーである参加者の場合、子供時代から今に至るまで、世界の中に自分がいる場所があり、自分の体とつながっているという感覚が薄いようだ。傷ついている自分を隠して生きて延びるための仮面をかぶっているということとも関係があるだろう。(p.58)
・子供に求めているものが実は自分の親が自分に求めてきたものと同じだったという気づきを得ていく。最終的に、子どもへの怒りは実は幼少時に感じていた孤独や苦痛・悲嘆に触れていることにも気づいていく。(p.71)
・困難な状況を生き延びるための装置である鎧が壊れそうになった時に鳴るアラームが怒りの仮面なのだといってもよいだろう。(p.74)
・ワークの中での傷についての語りは、聞いてもらうことでグループの中に場を与えられ、受け止められることで存在を獲得するのだ。今まで誰にも語られず、なかったことにしていた傷が、初めて場所を存在を獲得する。と同時に、語っている人自身の存在も聞いてもらうことによって肯定される。
・深い傷の語りを身をもって自分のこととして聴き取ることのできる人は限られる。(p.90)

・・・②へ続く

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